ヘルッタ・クーシネン

ヘルッタ・クーシネン
Hertta Kuusinen
ルーマニアのチャウシェスク大統領と(1972年)
生年月日 (1904-02-14) 1904年2月14日
出生地 フィンランド大公国の旗 フィンランド大公国
ニコラインカウプンキ州 ルハンカ(フィンランド語版)
没年月日 (1974-03-18) 1974年3月18日(70歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の旗 ロシア共和国 モスクワ
所属政党 フィンランド人民民主連盟(フィンランド語版)
配偶者 トゥーレ・レーエン(フィンランド語版)(1923年 - 1933年)
ユリ・レイノ(フィンランド語版)(1945年 - 1950年)
親族 オットー・クーシネン(父)

在任期間 1945年 - 1972年
大統領 カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(1945年 - 1946年)
ユホ・クスティ・パーシキヴィ(1946年 - 1956年)
ウルホ・ケッコネン(1956年 - 1972年)
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ヘルッタ・エリナ・クーシネンフィンランド語: Hertta Elina Kuusinen1904年2月14日 - 1974年3月18日)は、ソビエト連邦フィンランドの女性政治家。父は共産主義指導者のオットー・クーシネン。かつてはグレタ・クラフト(Greta Kraft)ならびにアイリス・ペッターソニン(Iris Petterssonin)の偽名を使っていた時期があった。

人物・来歴

ルハンカ(フィンランド語版)生まれ。父オットーとともに1922年ソ連へ移り、現地図書館司書となって1934年まで図書館で働いた。1930年代初頭に現地のフィンランド共産党(SKP)支部に参加。一方で1926年から1934年までコミンテルン国際部に所属。特に1932年から1933年まではドイツに対しての反ファシズムには積極的であった。

レーニン学校1930年から入学しており、1932年まで学んだ後に1933年から1934年にかけて同校で教鞭を執っていたが、共産革命を起こすため1934年にフィンランドに帰国した。しかしある事から投獄されてしまい、10年以上にわたり刑務所で過ごした。大戦後、共産主義者としての活動が許可されたことから、ヘルッタは国政に進出することとなった。

第二次世界大戦終結直後に行われた総選挙で人民民主連盟(フィンランド語版)(SKDL)から当選する。1952年から1958年にかけては書記長を務め、その間にSKDLは定数200のエドゥスクンタで50議席を確保する最大勢力となった。1972年に国会議員を引退し、のちにSKPの名誉会長に任命されている。1974年に病気の治療を受ける目的で訪れたモスクワにて没した。遺体は火葬されることとなり ヘルシンキヒエタニエミ墓地(フィンランド語版)へ埋葬された。

パーソナル

2007年の総選挙で国民連合党のサウリ・ニーニストに抜かれるまで、総選挙の得票数歴代1位の記録を持っていた。

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