ペップ出版

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株式会社ペップ出版(ペップしゅっぱん)は、1979年9月まで存在した日本の中堅出版社[1]。"タレント本"の先駆者的な出版社として知られた[1]

歴史

1969年3月17日、東京都千代田区有楽町ニッポン放送内に資本金1000万円で、株式会社パシフィック・エンタープライズとして創業[1]。代表取締役会長に石田達郎、代表取締役社長に高崎一郎が就任[1]。設立後すぐに南こうせつとかぐや姫、加藤和彦らと契約を結び、レコード原盤の製作を手掛けた[1]。またアメリカ雑誌『ルック』に発表されたリチャード・アヴェドン作のビートルズポスターの日本国内販売権を取得し、時勢に乗った[1]

1972年7月、本社を有楽町から六本木に移し、社名を「ペップ」と変更。入社数年の26歳の松崎満が社長に就任した。松崎は『週刊ポスト』の誌上麻雀大会に使われていた赤坂の料亭「ナオミ」の女将の一人息子。父親は不詳の私生児として生まれ、幼い頃から店に出入りする作家財界人有名人に可愛がられ育てられた[1]。1969年に立教大学卒業後、歌手を志望し、芸能界に近いパシフィック・エンタープライズに入社した。それまでレコードの版権を有する商売だった音楽出版社から、本の出版を専門とする会社になった。松崎は社長就任前から南こうせつ『愛の塩焼き』、興津要『艶笑落語』『微笑酔談』など、出版界にそれまで無かった「タレント人気をそのまま"本"にパッケージした商売」という出版メソッドを編み出した[1]

1974年12月に出版した笑福亭鶴光『かやくごはん』は『続かやくごはん』と合わせて50万部のベストセラー[1]。以降も北公次『256ページの絶叫』、竹下景子『水仙花』など、10万部以上を売り上げるベストセラーを7本連続して生み出し、1975年5月、完全に出版業に専念する意味で、社名を「ペップ出版」に変更、年商10億円の中堅出版社として成長していった。

1976年2月、ニッポン放送と出版物における業務提携を結び、独占出版権を得た[1]オールナイト・ニッポンスポンサーとなり、タレント本を中心とした新刊本の広告がなされた。当時30歳の松崎は「ペップ印刷」「ペップ新社」「ぶっくまん」「スリーセブン」「シックスティーンマガジン・ジャパン」などの関連会社を持つ出版社の代表として君臨した[1]。以降、タレント本を200冊以上世に出し、その大半はゴーストライターによるものだが[1]山本コウタローが取材を重ねたといわれる『誰も知らなかったよしだ拓郎』などは貴重な資料として知られる[2][3]

タレント本以外の出版もあったが、主力であるタレント本は大手出版社が参入、競争が激化し、実際は1970年代後半からは出す本、出す本が売れなかったといわれ、返本率が50%を越し、苦しい経営から逃れるためにまた新刊本を乱発。それも売れずに戻ってくる自転車操業が続いた[1]

1979年に入り、『話の特集』にいた矢崎泰久の離婚した妻の弟が社長兼編集長に就任したが、再建はならず。1979年9月5日、負債総額3億1500万円を計上し、事実上倒産した[1]。出版社の体質から債権者120社(人)は、ほとんどが芸能事務所だったといわれる[1]KKベストセラーズの設立者である岩瀬順三に誘われた社員数名が、岩瀬とともに1979年11月にワニブックスを設立している[4]

主な出版物

タレント本
タレント本以外

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 田川義明「タレント本の先駆者ペップ出版倒産に見る"甘えの構造"」『噂の眞相』1979年11月号、噂の眞相、23–27頁。 
  2. ^ 山本コウタローの名著「誰も知らなかった吉田拓郎」文庫化
  3. ^ 重見吉徳 (2022–07–19). “【マーケットを語らず Vol.69】脱炭素と日本株式(中):産業技術の1970年代”. フィデリティ投信. 2024年4月28日閲覧。
  4. ^ “女性アイドルの本もよく作っていました”. ノアズブックス (2011年6月16日). 2024年4月28日閲覧。
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