ミハイル・ヘラースコフ

ミハイル・ヘラースコフ
誕生 Михаи́л Матве́евич Хера́сков
(1733-11-05) 1733年11月5日旧暦では10月25日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国(現:ウクライナキエフ州ペレヤスラウ=フメリニツキー
死没 (1807-10-09) 1807年10月9日(73歳没)(旧暦では9月27日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国モスクワ
墓地 ドンスコイ修道院(ロシア語版)
職業 詩人小説家
ジャンル 叙事詩小説
文学活動 古典主義
代表作ロシアーダ(ロシア語版)』(1771年 - 1779年
配偶者 エリザベータ・ヘラスコーヴァ(ロシア語版)
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ミハイル・ヘラースコフ

ミハイル・マトヴェーヴィッチ・ヘラースコフロシア語:Михаи́л Матве́евич Хера́сковラテン文字表記例:Mikhail Matveyevich Kheraskov1733年11月5日旧暦では10月25日) - 1807年10月9日(旧暦では9月27日))は、ロシア帝国(現:ウクライナキエフ州ペレヤスラウ=フメリニツキー)出身の詩人小説家日本語では「ヘラスコフ」とも表記する[1]

1771年から1779年にかけて著されたイヴァン雷帝カザン包囲戦(ロシア語版)を扱った代表作[2]ロシアーダ(ロシア語版)』は、12章9000行からなるロシア最初の叙事詩となった[3](後述)。

また、1785年頃に著された『ロシアーダ』と共に評されるヘラースコフの叙事詩に『復活せるヴラディーミルВладимир возрожденный)』があり、この作品はルーシの洗礼を謳った[4]作品として名高い。

なお、ヘラースコフは熱心なフリーメイソンリー(フリーメイソンの会員)としても活躍し[3]モスクワ大学学長を務めた[1]

日本での評価に、ロシア文学者木村浩はヘラースコフの『ロシアーダ』をロシア古典主義の最後を飾るものとしている[2]

生涯

1733年11月5日(旧暦では10月25日)のロシア帝国(現:ウクライナキエフ州ペレヤスラウ=フメリニツキー)に、マトヴェイ・アンドレーエヴィッチ・ヘラースコフ(Матвей Андреевич Херасков)とアンナ(Анна Даниловна Хераскова)の元に生まれるが、父のマトヴェイはミハイルの誕生後に亡くなった。また、ミハイルの祖父ワラキアから移住してきた貴族で、ミハイルは貴族出身だった[1][4]

1740年サンクトペテルブルクに移る。1743年から同地のПервый кадетский корпусで教育を受け、1751年卒業した。

1754年から1755年にかけて商業大学(Коммерц-коллегия)に務めたが、1年で辞職し、1755年から1802年にかけてモスクワ大学に務め、評議員や学長を歴任した[4]

1807年10月9日(旧暦では9月27日)にモスクワで亡くなる。遺体はドンスコイ修道院(ロシア語版)埋葬された。

ロシアの叙事詩

ロシアの叙事詩は『イーゴリ遠征物語』や『ブィリーナ』などが『ロシアーダ』以前に存在していたが、特に後者は「民衆叙事詩」と呼ばれ、全体を俯瞰する叙事詩は無かった[3]

18世紀に入り、同国出身の詩人であるヴァシリー・トレディアコフスキー(英語版)ミハイル・ロモノーソフアレクサンドル・スマローコフ(英語版)などが叙事詩の作成を試みたが、いずれも失敗に終わっていた。

そのような中、1779年とフランスなど他の国に比べてやや遅い完成となったロシア最初の叙事詩がヘラースコフの『ロシアーダ』であった。余談だが『ロシアーダ』とは「ロシアの歌」と言う意味である。

脚注

  1. ^ a b c 万有百科大事典 1973, p. 570.
  2. ^ a b 大日本百科事典 1967, p. 239.
  3. ^ a b c 藤沼、小野、安岡 2005, p. 124.
  4. ^ a b c 世界大百科事典 1972, p. 524.

参考文献

ウィキメディア・コモンズには、ミハイル・ヘラースコフに関連するメディアがあります。

外部リンク

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