同志座
同志座(どうしざ)は、かつて存在した日本の劇団である[1][2]。1924年(大正13年)9月、山田隆弥(のちの山田隆也)、佐々木積、岡田嘉子ら「舞台協会」のメンバーが中心となって、東京で結成された[1][2][3]。
略歴
概要
設立メンバーは、山田と佐々木、岡田のほか、宮島文雄(のちの宮島啓夫)[1]、笹川恵三[4]、森英治郎[5]、新国劇を脱退した田中介二[6]、金井謹之助[6]ら。「舞台協会」のほとんどが参加したといわれる[2]。当時学生だった露原桔梗(のちの稲垣きくの)は、同劇団の結成を新聞で知り、親の反対を押し切って参加した[1]。同年同月、第1回公演が東京・有楽町にあった邦楽座(のちの丸の内ピカデリー)で上演された[2]。
1925年(大正14年)3月には、本郷座で前田曙山作の『燃ゆる渦巻』を上演、金井謹之助が近藤勇、三井光子がお綾、山田隆弥が駒井相摸守を演じた[7]。同年、兵庫県西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所と提携、森英治郎、出雲美樹子、宮島啓夫は同年6月25日に公開された坂田重則監督の『光り闇を行く』[8]、山田隆弥、宮島啓夫、出雲美樹子らは同日公開かつ同監督の『敵と女敵』、佐々木積、夏川静江は同年7月29日に公開された桜庭青蘭監督の『虹を追ふて』[9]、露原桔梗は同年10月6日に公開された坂田重則改め阪田重則監督の『運命の十字路』に夏川静江、佐々木積らとともに[10]、それぞれ出演している記録がある。これらの映画は「東亞同志座映畫」(東亜同志座映画)と目され、そのように報道された[11]。映画出演のかたわら、同年12月には、同県の宝塚劇場(現在の宝塚大劇場)で、レフ・トルストイ作の『復活』および山本有三作の『同志の人々』を上演している[12]。
浅見勝太郎は途中、1926年(大正15年)に脱退し[13]、進藤英太郎は同年に参加している[14]。このころ、間もなく解散し、岡田嘉子は日活京都撮影所第二部(日活大将軍撮影所現代劇部)に入社、東亜キネマに出演した者は、そのまま同社の専属となった[2]。
所属俳優
- 山田隆弥(のちの山田隆也)[1]
- 岡田嘉子[1]
- 宮島文雄(のちの宮島啓夫)[1]
- 佐々木積[3]
- 加藤精一[15]
- 三井光子
- 夏川静江
- 笹川恵三[4]
- 森英治郎[5]
- 浅見勝太郎[13]
- 成松和一[16]
- 田中介二[6]
- 金井謹之助[6]
- 露原桔梗(のちの稲垣きくの)[1]
- 出雲美樹子[17]
- 高勢実(のちの高勢実乗)[17]
- 進藤英太郎 (1926年)[14]
脚注
- ^ a b c d e f g h 影山[2005], p.46-47.
- ^ a b c d e 田中[1964], p.35.
- ^ a b 佐々木積、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ a b 笹川恵三、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ a b 森英治郎、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ a b c d 田中介二、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ 芝居とキネマ 2(3)、国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。
- ^ 光り闇を行く、日本映画データベース、2013年3月4日閲覧。
- ^ 虹を追ふて、日本映画データベース、2013年3月4日閲覧。
- ^ 運命の十字路、日本映画データベース、2013年3月4日閲覧。
- ^ 芝居とキネマ 2(8)、国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。
- ^ 芝居とキネマ 2(12)、国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。
- ^ a b 浅見勝太郎、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ a b 進藤英太郎、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ キネマ旬報社[1979], p.156-157.
- ^ 成松和一、jlogos.com, エア、2013年3月4日閲覧。
- ^ a b 市川[1984], p.83-85.
参考文献
- 『明治大正新劇史資料』、田中栄三、演劇出版社、1964年
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
- 『市川楽三郎手記』、市川楽三郎、古座谷松代、1984年
- 「稲垣きくの」影山澄江、『時代を拓いた女たち - かながわの131人』所収、編江刺昭子、神奈川新聞社、2005年4月 ISBN 4876453586 , p.46-47.
関連項目
- 文芸協会
- 芸術座 (劇団)
- 舞台協会