柴田義男
柴田 義男(しばた よしお、1902年(明治35年)2月24日[1] - 1978年(昭和53年)6月19日[2])は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
岩手県二戸郡一戸町で生まれる[1]。上京し、正則中学校(現・正則高等学校)に入るが、中退[3]。
中退後は帰郷し、労農運動に加わり、多くの運動の指導を行い、労働農民党に入党した[1][2]。1937年、人民戦線事件で検挙され[3]、さらに1942年、反軍思想で検挙された[1]。
戦後、日本社会党に入党し、同岩手県連書記長を務めた[1][2]。1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補予定だったが、公職追放となる[4][5]。追放解除後の1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に岩手県第一区から社会党左派で出馬し、落選[6]。翌1953年4月の第26回衆議院議員総選挙で当選[6]。1955年2月の第27回衆議院議員総選挙で落選した[6]。衆議院議員を一期務めた[2]。
実業界では、高松振興取締役社長、岩手県教科図書常務取締役、東北マッチ取締役、盛岡商工会議所理事、第一商事会長などを務め[2]、1958年から盛岡商工会議所副会頭を務めた[1]。