聖フランチェスコとマグダラのマリアのいるピエタ

『二人の天使のいるピエタ』
フランス語: Pietà avec saint François et sainte Marie-Madeleine
英語: Pietà with Saint Francis and Saint Mary Magdalene
作者アンニーバレ・カラッチ
製作年1602-1607年
種類キャンバス上に油彩
寸法227 cm × 187 cm (89 in × 74 in)
所蔵ルーヴル美術館パリ

聖フランチェスコとマグダラのマリアのいるピエタ』(せいフランチェスコとマグダラのマリアのいるピエタ、: Pietà avec saint François et sainte Marie-Madeleine: Pietà with Saint Francis and Saint Mary Magdalene)は、イタリアバロック絵画の巨匠アンニーバレ・カラッチが1602-1607年にキャンバス上に油彩で制作した絵画である。1797年にナポレオンの軍隊によりローマサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会(英語版)のマッテイ (Mattei) 家礼拝堂より略奪され、ナポレオン戦争後に返還されなかった[1]。現在、パリルーヴル美術館に所蔵されている[1][2]

作品

アンニーバレは「ピエタ」を主題とした作品を何点か残しているが、本作はその中でも古典的な性格の強い作品である[2]ヴァチカン宮殿にあるミケランジェロの有名な『ピエタ』を即座に思い起こさせるイエス・キリスト像に端的に示されているように、人物像は理想化され、大理石彫刻のような明確な輪郭線を持っている。人物の身振りはやや誇張されているが、表情は抑制されている。しかし、深い悲しみを内に秘めた表情は、情景の悲劇的な性格を如実に伝えている。同時に、やや芝居じみた宗教的感情の表現は、当時のカトリック教会によって求められた信仰心と対応する[2]

この絵画は、ジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキ(英語版)の手紙の中で言及されている作品であると考えられる。また、絵画はカルロ・チェーザレ・マルヴァジア(英語版)の『フェルシーナ・ピットリーチェ (Felsina Pittrice) 』中に複製画の形で登場しているが、マルヴァジアによるいくつかの記述はアグッキの手紙を1607年のものだとしている[3]。アグッキの言葉は、当時アンニーバレにより制作された作品に言及していることを示唆する。彼の手紙は現在ルーヴル美術館にある本作にはっきりと言及しているわけではないが、手紙の文脈からするとルーヴル美術館の作品はアグッキが言及していると思われる唯一のものである[4]。アグッキによる2番目の日付のない手紙は、はっきりとマッテイ家礼拝堂にある『ピエタ』に言及している。一方、上述の『フェルシーナ・ピットリーチェ』の中の1節は、『ピエタ』がアンニーバレの最後の作品の1つであることを裏付けているが、他の人々が作品をずっと早い制作時期のものだとしたことを述べている。

ドメニキーノ『ピエタ』(1603年)、メトロポリタン美術館ニューヨーク。画面下部左側に「MDCIII」 (1603) と記されている。
ピエトロ・アクィラ(英語版) 『聖フランチェスコとマグダラのマリアのいるピエタ』、17世紀、フォッグ美術館、ケンブリッジ (マサチューセッツ州)

研究者のティーツェ (Tietze) 、マホン(英語版)、カヴァッリ (Cavalli)、ポズナー (Posner) は皆、本作の制作年として1607年はあまりにも遅すぎると主張している。実際、1603年のドメニキーノによる銅板の複製『ピエタ』 (メトロポリタン美術館) は、本作のカラッチの死に非常に近い制作年、あるいはドメニキーノが複製を制作した直前という制作年を裏付ける。となると、アグッキの手紙で言及されている1607年という制作年は、誤りであるように思われる[3][5]。ドメニキーノの作品は、聖フランチェスコの代わりにアリマタヤのヨセフ (画面上部左端) を描いている。カラッチはおそらく最初ヨセフを描いたが、作品の設置場所が聖フランチェスコに奉納された教会と決定するや、ヨセフを聖フランチェスコに変え、ドメニキーノは、カラッチがこの変更をする前に複製を制作したのであろう[3]

聖フランチェスコではなくヨセフが登場する、アンニーバレの準備素描 (イェニッシュ美術館(英語版)ヴヴェイ) はこの説を証だてるように思われたが、1994年のX線によるアンニーバレの本作の調査ではペンティメンティ(英語版) (描きなおし) がないことがわかった[3]。別の説では、現在、聖フランチェスコの占めている位置は、ドメニキーノの複製が制作された時は空白だったと提唱されている。後に、ドメニキーノは、自身の創意、またはアンニーバレの素描にもとづて空白部分にヨセフの人物像を加え、一方、アンニーバレは空白部分に聖フランチェスコの人物像を加えたという見解である[6]

脚注

  1. ^ a b “Pietà avec saint François et sainte Marie-Madeleine”. ルーヴル美術館公式サイト (フランス語). https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010064445 2024年2月24日閲覧。 
  2. ^ a b c NHKルーブル美術館V バロックの光と影、1985年、20頁。
  3. ^ a b c d Donald Posner, Annibale Carracci: A Study in the reform of Italian Painting around 1590, London, 1971, Vol. II, N. 136, pp. 60-61.
  4. ^ Denis Mahon, Studies in Seicento Art and Theory, 1947, p. 290
  5. ^ “Catalogue entry”. メトロポリタン美術館公式サイト (英語). 2024年2月24日閲覧。
  6. ^ (イタリア語) Giulio Bora and Dominique Radrizzani, Cinq siècles de dessins: collections du Musée Jenisch, 1997, pp. 36-39.

参考文献

外部リンク

  • ルーヴル美術館公式サイト、アンニーバレ・カラッチ『聖フランチェスコとマグダラのマリアのいるピエタ』 (フランス語)
風俗画
宗教画
  • 『キリストの洗礼』(1585年)
  • 聖クララ、聖フランチェスコ、マグダラのマリアのいるピエタ』(1585年)
  • 『聖エウスタキウスの幻視』(1585-1586年)
  • 『聖母子と聖人たち (ドレスデン)』(1588年)
  • 『聖母被昇天 (プラド美術館)』(1588-1590年)
  • 『聖ルカと聖カタリナの前に現れる聖母』(1592年)
  • 『聖母子と聖人たち (ボローニャ)』(1593年)
  • 聖ロクスの施し』(1587-1595年)
  • 『キリストの埋葬』(1595年頃)
  • 『キリストとサマリアの女』(1594-1595年)
  • 修道院長聖アントニウスに現れるキリスト』(1598-1600年)
  • 栄光のキリストと聖人たち、およびオドアルド・ファルネーゼ』(1598-1600年)
  • 『アンティオキアの聖マルガリタ』(1599年)
  • 『ピエタ』(1600年頃)
  • 『キリストの墓を訪れた三人のマリア』(1600年頃)
  • 『主よ、何処へ行かれるのですか』(1601-1602年)
  • 『聖母被昇天 (ローマ)』(1600-1601年)
  • 二人の天使のいるピエタ』(1603年頃)
  • 『聖ステファノの殉教』(1603-1604年頃)
  • 『エジプト逃避途上の休息』(1604年頃)
  • 『死せるキリストの哀悼』(1604年頃)
  • 『聖フランチェスコとマグダラのマリアのいるピエタ』(1602-1607年)
神話画・寓意画
風景画
  • 『川景色』 (1590年頃)
  • 『狩猟』(1595年以前)
  • 『釣り』(1595年以前)
  • 『エジプトへの逃避のある風景』(1604年頃)
肖像画