鈴木惠一

曖昧さ回避 鈴木恵一」、「鈴木けい一」、「鈴木慶一」、「鈴木敬一」、あるいは「鈴木啓一 (ジャーナリスト)」とは別人です。
鈴木 惠一
鈴木惠一
鈴木 惠一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
所属 国土計画
誕生日 (1942-11-10) 1942年11月10日(81歳)
出身地 樺太
獲得メダル
スピードスケート
世界スプリントスピードスケート選手権大会
1970 総合

鈴木 恵一(すずき けいいち、1942年11月10日 - )は、日本スケート連盟理事、元スピードスケート選手。

経歴・人物

樺太出身[1]北海道苫小牧工業高等学校在学中、1960年国体で500mと1500mの2冠、1961年には国体とインターハイの500mと1500mのそれぞれ2冠を達成した[1]1966年明治大学政治経済学部卒業後[2]国土計画に所属。

1968年と1970年にスピードスケート500mの世界記録を樹立した[3]。しかし、3回出場したオリンピックではいずれもメダルに届かず、悲運の選手として知られる。特に1968年グルノーブルオリンピックでは世界記録保持者として出場し、鈴木は金メダル候補と呼ばれながらレース直前に小石を踏んでしまい、スケートのブレード(刃)が欠けるアクシデントに見舞われ8位に終わった[1][4]

1972年札幌オリンピックでは、リーダーシップと過去2回のオリンピック出場経験から選手団主将に選ばれ選手宣誓も行っている[1][2]。だが、本人は前年に引退を宣言しており[1]、本大会では19位と全く振るわなかった。

篠田正浩監督による記録映画『札幌オリンピック』では、鈴木の練習風景、ライバルであったエアハルド・ケラー西ドイツの旗 西ドイツ/グルノーブル&札幌の500m金メダリスト)との友情、レース、鈴木の実績が詳細に紹介されている[1]

現役引退後はプロ野球西武ライオンズ球団職員に異動し、チーム広報担当を務めた[4]

2006年トリノオリンピックではスピードスケート日本代表監督を務め、2006年10月から日本スケート連盟理事を務めた。2010年バンクーバーオリンピックでは日本選手団全体の総監督として[3]、全競技代表の総指揮を執った。

主な競技歴

指導歴

著書

  • 『スピードスケート』 (講談社刊、1974年)

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f “「世界最速」の男 鈴木恵一 - 冬季オリンピック・パラリンピック大会 - スポーツ 歴史の検証 - 知る学ぶ”. 笹川スポーツ財団. 2024年2月11日閲覧。
  2. ^ a b “校友・鈴木惠一氏に「明治大学特別功労賞」を贈呈 -日本スケート界に尽力-”. 明治大学. 2024年2月11日閲覧。
  3. ^ a b c “(4)「駄目なことには駄目といえるようなキャプテンに」/鈴木惠一監督インタビュー”. 明大スポーツ新聞部. 2024年2月11日閲覧。
  4. ^ a b “スポーツ歴史の検証 第9回五輪の夢追う催促スケーター鈴木惠一”. 笹川スポーツ財団. 2024年2月11日閲覧。

外部リンク

  • 「驚異のシミズ」と紹介 日本の先駆者、鈴木恵一[リンク切れ] - 共同通信社
  • 鈴木惠一 - Olympedia(英語) ウィキデータを編集
  • トリノ冬季五輪2006:毎日新聞
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
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2010年代
2020年代
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