龍造寺信周

 
凡例
龍造寺 信周
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文元年10月18日(1532年11月14日
死没 慶長13年8月15日(1608年9月23日
改名 信周→周光(ちかみつ)
墓所 陽興寺(佐賀県杵島郡白石町 須古鍋島家御霊屋)
官位 安房守[1]左馬頭、阿波守。
主君 龍造寺隆信政家高房鍋島勝茂
肥前佐賀藩
氏族 龍造寺氏須古鍋島家
父母 父:龍造寺周家
兄弟 八戸宗暘室、隆信信周犬塚尚重継室、長信
家誠(家俊)、信昭、有田信脇、納富長昭、久和原盛弘、須古正純
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龍造寺 信周(りゅうぞうじ のぶかね[2]。 りゅうぞうじ のぶちか とも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将須古鍋島家初代当主。兄の龍造寺隆信と共に各地を転戦し、武功を挙げたといわれている。

生涯

天文元年(1532年)、龍造寺周家の次男として誕生。隆信の次弟だが、異母兄弟であったため、隆信と同母弟の長信より地位は低かったと推測される。

元亀元年(1570年)に大友氏龍造寺氏が戦った今山の戦い後、局地戦では大勝した龍造寺軍ではあったが、国内情勢は不安定であった為に、大友氏とこのまま抗争状態になるのは不利と判断。大友氏からの要請により、人質として大友氏へ派遣され、和議を成立させている。

天正12年(1584年)に沖田畷の戦いでの兄・隆信が戦死した後に須古城へ移り、豊臣秀吉九州平定朝鮮出兵などを経て、龍造寺氏から鍋島直茂への権力の移譲が進むと、この流れに従って、鍋島氏肥前国支配体制を認めた。

龍造寺高房の龍造寺氏復権への動きに対し、幕府が事情聴取のために、信周と弟・長信[注釈 1]龍造寺家晴の三人を江戸に招聘した際、三人は鍋島氏の肥前支配を認めたこともあり、鍋島氏の肥前支配は決定的となった。

なお、信周の子孫は須古鍋島家龍造寺四家の一つ)として、佐賀鍋島家の重臣として明治維新を迎えた。

慶長13年(1608年)死去。跡を次男・信昭が継ぐ。

脚注

注釈

  1. ^ 一説には子の多久安順

出典

  1. ^ 『北肥戦誌(九州治乱記)』の記述。
  2. ^ “りゅうぞうじ のぶかね”. 白石町. 2021年10月31日閲覧。
須古鍋島家初代当主
村中家

分家・支流

水ケ江家
会津龍造寺家
  • 季明
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  • 勝之助
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